佐竹作太郎
記念写真に納まる佐竹作太郎 渋沢栄一翁の斜め後ろ
*アメリカ合衆国経済使節団渡米実業団に参加
1909(明治42年)渋沢栄一氏を団長としたアメリカ合衆国経済使節団渡米実業団に名取和作氏
(桔梗信玄餅 桔梗屋創業者)を従え参加後、明治43年2月22日に東京商工会議所で開催された
帰国報告会で渋沢氏から「昨年の亜米利加旅行は、御聞及びの通り八月半ばに出立致しまして、
十二月半ばに帰りました、故に四箇月の間の大旅行で、大陸の汽車旅行も三箇月でございましたが、
其道行は略しまして、見ました事柄に付て大体の観察を一二申上げて置きたうございます、但し
工業上に付ての事などは、寧ろ佐竹君が後に御話のある積りになつて居りまするで、御聴取ある
ことを希望致します。」(中略 原文まま)と紹介され団員を代表して見聞談を述べた。
佐竹作太郎君の答辞
今日は私をも御招き下さいまして誠に光栄に存じます、今回私が渡米を致すことに決した動機は、
渋沢男爵始め私に行つたらどうかと云ふ御相談を受けまして、それが動機になりまして遂に渡米の
決心を致し御請を致しましたものゝ、考へて見ますと、私は学問も無ければ見識もない、何等役に
立つべき理由が少しも見出しませぬので、殆ど唖同様の者でございます、資格の上から申しますと
実に問題外でございまして、私が参りますといふことは世間に向つても申上げられぬやうな次第で
ございますが、唯僅かに年を取りましたゞけに世の中の経歴といふものだけを知つて居りますが、
其他には何も知りませぬ、それでは彼の国に参つて見ました所が、看板さへ読み得られぬのであります
誠に慚愧に堪へませぬ、それで唯今御言葉のございました如く、成るべく一身のことを注意致しまするが、
先づ以て肝腎のことゝ考へますので、御忠告に背きませず無事に帰つて参りたいと思ひます、
唯前に申上げたやうな次第で、一向何等役に立たぬ者が一行に加はつて参りますに付ては、
横浜を出帆致しましてから更に横浜に帰着しまする迄の間は、御同行諸君が非常の御迷惑であらうと
自分は推察を致して居ります、甚だ恐縮に堪へぬのであります、幸に彼地に於きましても、
御一行諸君の御助力によりまして、大なる過失なく大なる恥辱を蒙らないやうにして参りますれば、
自分一身のために仕合せであらうと心得て居ります、今夕は斯る盛大なる御宴会に御招待を蒙りまして、
誠に光栄と存じます、深く諸君に対して感謝の意を表します(拍手)
○本資料第三十二巻所収「渡米実業団」参照。
*日本で初めて貯金通帳を発行
現存する国内 最古の貯金通帳は、佐竹作太郎が頭取を務めていた1878年に山梨中央銀行の前身である
第十国立銀行が発行したもので、紙通帳には150年近くの歴史がある。
*日本で初めて電気自動車を購入
明治42年(1909)には、東京電燈社長の佐竹作太郎が米国Baker 社の電気自動車ビクトリア号(二人乗り)
を購入し、それを分解調査した結果を基に電気自動車が試作された。
1910年(明治43年)に「東京電燈会社(日本初の電力会社)」社長の佐竹作太郎が購入
*水力発電振興に尽力
佐竹は買収と増資だけではなく、水力発電にも早くに注目した。「水から火が出るなんてバカなことが
あるか」と言われた時代である。「技師を近県に派出して踏査せしめ、甲州桂川付近の猿橋に適当な水力
を発見、私財を投じて水利権を買収したが、数年後、会社もまた水力電気を応用せんとする議起こるや、
先に買収せる水利権を会社に元値で譲渡し、先見の明と事業に対する犠牲的篤行を発揮した」
(「財界物故傑物伝」)
佐竹作太郎夫妻
佐竹作太郎は、嘉永2年(1849年)3月15日、山城国(京都府)愛宕郡大原の庄屋佐竹宇右衛門の
長男に生まれた。佐竹は、勤王の士であった藤村紫朗との劇的なめぐりあいによって、藤村が山梨県
権令として赴任した際、随伴して本県入りした。明治6年、25歳の折であった。
佐竹は、しばらく藤村の執事として県庁に勤めたが、藤村の銀行設立構想により本県為替方であった
島田組へ入社して金融業の実務を修得し、興益社の設立とともに支配人となった。そして、
社長栗原信近の薫陶を受けつつ、同社の業容拡大に尽力した。国立銀行への転換後も、支配人として
実務を担当し、14年1月には、取締役となり、翌15年1月に栗原信近辞任の後を受けて第2代頭取に
就任し、堅実経営を推進した。佐竹は、冷静かつ客観的判断に立つ実務家で、近代的経営感覚の持主
であった。松方デフレ政策下にあっては、内部留保に努め、業礎の安定に万全を期した。
20年代に入り、景気回復とともに、経営も一段落すると、佐竹の人望は急速に高まり、21年には甲府の
代表として県会議員に、また甲府市制の施行された22年には、甲府市会議員に選出される等政治へも
参画していった。
23年の恐慌以降、若尾逸平らの提唱により、県内資本が東京馬車鉄道株式へ集中すると、これらの
投資家の要請を受けて、同社の取締役として経営に参画し、さらに東京電燈の株式買占めが行われると、
同社の常務に推されて経営に乗り出した。しかし、佐竹はこれら投資家の傀儡ではなかった。甲州財閥が
東京電燈を手中に収め、全面的にその経営権を握って、株価のつり上げを謀ったとき、
佐竹は、若尾逸平ら投資家に
「甲州人トシテ勢力ヲ専ラニスルガ如キ挙動ハ最モ慎マザルベカラズ」
(甲州人として勢力をもっぱらにするが如き挙動はもっとも慎まざるべからず)
と厳しくその愚をたしなめ、確固たる見識をもって経営にあたる気概を示した。
佐竹は。32年には同社の社長となり、大増資を断行して社礎を盤石にし、甲州系による恒久的経営の
確立を図った。こうして、名実ともに培われた篤望により、35年から45年にかけては、衆議院議員に
連続5回当選し、両院議長をも務めるなど、文字どおり本県政財界の重鎮であった。
佐竹は、このほか加富登ビールをはじめとする諸会社の重役に名を連ねる一方、本県赤十字委員および
甲府商業会議所議員等、縦横の活躍をした。こうした功績によって、40年には、勲四等旭日小綬章を
授けられた。
大正4年8月17日、病のためついに不帰の客となった。享年66歳。
【国会議員歴】
衆 山梨県甲府市 第 7回 1902(明治35)年8月10日~1902(明治35)年12月28日 53歳
衆 山梨県甲府市 第 8回 1903(明治36)年3月 1日~1903(明治36)年12月11日
衆 山梨県甲府市 第 9回 1904(明治37)年3月 1日~1908(明治41)年 3月27日
衆 山梨県甲府市 第10回 1908(明治41)年5月15日~1912(明治45)年 5月14日
衆 山梨県甲府市 第11回 1912(明治45)年5月15日~1914(大正3) 年12月25日
【所属政党歴】
1902(明治35)年11月 壬寅会
1903(明治36)年 5月 中正倶楽部
1904(明治37)年 3月 中辰倶楽部
1905(明治38)年12月 無所属
1906(明治39)年12月 立憲政友会
【院委員長歴】
帝衆 全院委員会委員長 第25回 常会(1908(明治41)年)~第26回 常会(1909(明治42)年)
佐竹作太郎像(甲府市愛宕山)戦中に金属供出
新宿、柏木の自宅より出棺する佐竹作太郎
私邸を出発する佐竹作太郎葬列
山梨県甲府市にて執り行われた葬儀
日本基督教団銀座教会で執り行われた佐竹作太郎夫人葬儀
買収に次ぐ買収、東電の礎 佐竹作太郎氏
鍋島高明・市場経済研究所代表
佐竹作太郎が甲州財閥の始祖・若尾逸平の指名で東京電灯(現東京電力)の社長に就任するのは明治32年、50歳のことだ。若尾の後ろ盾があったとはいえ、大正4年に他界するまで16年間にわたって采配をふるい、買収に次ぐ買収、増資に次ぐ増資で、在任中に資本金を25倍にまで太らせた。
「佐竹は東電社長の椅子に就くやいなや、社員の大淘汰を断行して旧勢力を退け、一方では品川電灯、深川電灯、八王子電灯、東京電力など競争会社を片っ端から合併、また買収するという一流の積極主義を推し進めた。供給区域は東京を中心に関東一円に及ぶ大東電の基礎固めをした。甲州財閥の手に移ってからの東電の歴史は合併の歴史でもあった。競争会社が現れれば、たちまちこれを買収、合併して、その間に資本金はコケ肥りに膨れ上がった」(小泉剛著「甲州財閥一日本経済の動脈をにぎる男たち」)
東京市街鉄道や馬車鉄道を手中に収めた甲州財閥の猛者たちが次に目をつけたのが電灯会社で、東京電灯の株集めに奔走し始める。日清戦争景気の反動で不況色を強めるなか、株価が大きく下落、増資もできない状況に陥ると甲州財閥の総帥若尾逸平はチャンス到来とみて「乗り物の次は明かりだ」とばかり幕下の面々に東電買い占めを指令する。
「根津嘉一郎、小池国三らが兜町に進出して買い付けに飛び回り、佐竹作太郎が東京馬車鉄道を本拠として作戦指導にあたり、若尾逸平は甲府から総指揮をとる。しかもその背後には県知事藤村紫朗がいて知恵を貸すというありさまが、まさに甲州財閥がクツワを並べて東京電灯へ向かって進軍した」(斎藤芳弘著「甲州財閥物語」)
当時の東京電灯は蜂須賀家、毛利家が支配権を握り、安田善次郎の資本を頼りに「甲州の山猿軍団に渡してたまるか」と防戦に努めるが、いわば“殿さま商法“であり、野武士のような甲州軍団の敵ではなかった。明治29年、甲州勢が買い集めた東電株は若尾逸平5000株、若尾民造1000株、根津嘉一郎840株、田中経一郎700株、佐竹作太郎、加賀美嘉兵衛各590株、小野金六500株、神戸挙一400株、安藤保太郎300株、合計9920株に達した。
払い込み株数3万株の3分の1を手中に収めた。だが、若尾や佐竹たちは不満である。甲州の中堅資本家にも呼び掛けて買い増しを続け、ついに過半数を制してしまう。そして臨時株主総会で佐竹が常務に就任する一方、倍額増資でますます支配権を強め、同32年には安田善次郎の側近でもある木村正幹社長を追い出して佐竹が社長となり、冒頭に記したような快進撃が幕を切る。以来、半世紀に及ぶ甲州財閥による東電支配が始まる。
佐竹は買収と増資だけではなく、水力発電にも早くに着目した。「水から火が出るなんてバカなことがあるか」と言われた時代である。「技師を近県に派出して踏査せしめ、甲州桂川付近の猿橋に適当な水力を発見、私財を投じて水利権を買収したが、数年後、会社もまた水力電気を応用せんとする議起こるや、先に買収せる水利権を会社に元値で譲渡し、先見の明と事業に対する犠牲的篤行を発揮した」(「財界物故傑物伝」)
佐竹作太郎は京都の出身、藤村紫朗が山梨県令に転勤になったのに従って甲州に来る。県庁の職員となるが、藤村の仲介で若尾逸平の知遇を得てから頭角を現す。マスコミから「甲州軍の参謀長」と称される活躍ぶりで、甲州を第二の故郷とする。豪商若尾逸平が第十国立銀行を創設すると支配人に任命され、同15年には頭取に就任する。
「佐竹は和を重んずるあまり、決断力が乏しい」といった世評があるが、東電社長に就任した直後、大ナタをふるった。大勢の反対を押し切って、年間11%だった配当を7%に切り下げ、古参社員を整理、新進気鋭の士を抜てきするなど思い切った手を打つ。
甲州閥は利にさとい。彼らは機会あるごとに増資をやってプレミアムを稼ぐことを忘れない。東電は甲州の軍勢によって大を成し、甲州軍は東電によって、したたかにもうけた。
佐竹が死去したあと、神戸挙一が社長に就任するが、佐竹の積極路線を踏襲、大正バブル景気も手伝って相次ぐ合併・買収・増資で大正15年には資本金が3億5000万円に達し、国策会社満鉄(4億4000万円)に次ぐ資本金を誇るに至った。
=敬称略
信条
・資性重厚、謙遜にして人と争わず、衆望を収めた
・精力、人に絶し、ことに当たるに熱誠
・事業のみを全生命とし、趣味としてあげるべきものはない
・甲州を第二の故郷とし、殖産興業に力を注ぎ、理財の道に明るかった(「財界物故傑物伝」)
・かどが取れて和気おのずから人を癒やす力がある。才略は群を抜き一方の頭領として立つ資格あり(戸山銃声)
(さたけ さくたろう 1849~1915)
嘉永2年、山城国愛宕郡大原村で生まれ、新進官僚藤村紫朗の玄関番となる。藤村が山梨県令になると、彼に従って甲府に来て若尾逸平の知遇を得、明治15年第十国立銀行の頭取となる。若尾が東京に進出すると、上京して同25年東京馬車鉄道常務に就任、同29年東京電灯常務となり、同32年東電の専務取締役社長に就任、改革を断行、買収、増資を繰り返し、同44年には資本金5000万円となる。大正4年死去、京都と甲府に分骨された。この間衆議院議員を5期つとめた。
(写真は「歴代国会議員名鑑」より)
日本経済新聞より抜粋
「回顧八十一年」
“EIGHTY YEAR’S SURVEY” (Education and Temperance) By Sho Nemoto
(これは昭和6年10月25日、 銀座教会の東京禁酒会例会に於ける根本正の講演を速記したものです。)
只今、堀田先生より御鄭重なる御紹介を頂いて恐縮であります。 この教会にあがりまして、第一に私が感激且つ感謝することは、ちゃんときまりの七時半といふ時間、 その五分前に、この教会の鐘が鳴ったことであります。そして今、鐘の音を聞いて、この鐘は普通の鐘ではない
鐘の響きが・・・・我々に限りなき命を興ふる
ところの一つの音で、これを軽々しく伺つてはならんといふ感じを起しました。そしてこの鐘の音は、単に銀座地方、又この教会へおいでになる諸君のお耳にだけ達する ばかりでなく、日本全国にも響くのであるといふことを思つて、私は心に一種の感激 を抱いた次第であります。
佐竹作太郎君は、実に恭謙のお方であつて大いに社会の為めに、真面目に尽くした人であります。この佐竹作太郎君が、電燈会社の社長をして居た時分には、五十円払込の株が七十五円以上もして居った、今日は僅かに三十円内外といふことで、 その辺を考へても同君の手腕力量のほどがはかられます。又佐竹君は、自分で使ふところのものは、ごく質素倹約しながら、しかし出すべきところにはよく出した、
電灯会社々社長時代、日本で最初に、自動車に乗ったことは今でも有名であります。
その自動車の走る音が今日の様なブウブウでなく、如何にも気持のよい音楽を聞くやうな音であつたのを、 私は近所に住んで居つて、よく今でも覚えてゐます。
約三十年も前のこと、 我々の同僚の一人が金の入用に迫られたことがあつて、同僚の者が集って、佐竹君の所へ金を借りに行くことになりました。 その時、 選ばれたのが千葉県選出の有名なる代議士板倉中君、 これは弁護士でなかなか立流な方今も尚壮健であるが、この方と私と二人が、 金を借りに行く委員に選ばれた。 まことにどうも よい御使ひではないけれどもとに角我々二人は、 有楽町社宅へ行つて『佐竹さん、 かういふ事で金がいるが五百円だけ貸してやって下さい』 と依頼しました。 すると佐竹君は 『御苦労さまです。 貴方がたが代表して来られたのであるから、私も大いに考へませう。それで私が三百円をさし上げますからあとの二百円は、御両人で御出しなさい。』 といふことで―どうもうまいやり方ですぐ、その場で経済的に、ま た道理的に五百円のものを三百円に減らして実行されたことがあります。 私共二人が 二百円を出したか、出さなかったかは覚えてゐませんが、とに角佐竹君のことと言へばこのことを思ひ出します。
今日この教会にあがつて佐竹君の鐘の音をうかゞつて、 私は今更ながら神様に感謝し、佐竹君やそのお子さん、お孫さんのことを思ひ出した 次第であります。
わが国の国土を初めて走行した電気自動車は明治33年(1900)の皇太子ご成婚を記念して献上された米国ウッズ社製のビクトリア号であると報告した。明治42年(1909)には、東京電燈社長の佐竹作太郎が米国Baker 社の電気自動車(二人乗り)を購入した。図1には佐竹作太郎が乗っている写真を示している。その後、この車は何台か輸入され、明治44年(1911)にはこの車の分解調査の結果を基にして、電気自動車が試作されたという話もある。この試作こそがわが国で最初に作られた電気自動車である。しかし、試作したという記録は残っているが、試作された自動車そのものに関しての記録はいまだに見つけることができていない。 図1 東京電燈が輸入したBaker 社の電気自動車(1908)
森本雅之 稲森真美子(東海大学)より
甲府市・東京電灯(現東京電力)・第十国立銀行(現山梨中央銀行)より寄贈された佐竹作太郎の墓