ルーツ -佐竹次郎-

佐竹次郎

岸総理と談笑する



養父 佐竹次郎

富国生命社長就任時資料

昭和26年4月24日、小林前社長の後を受けて副社長佐竹次郎が第4代社長に就任した。
佐竹新社長は明治29年7月山梨県に生まれ、大正14年わが社に第一部長として入社、
昭和3年病気のため退職、その後22年に副社長としてわが社に復帰するまで、各社の社長、
役員等を歴任、殊に太平生命専務取締役、日産生命社長を務めるなど、経営者としての
豊富な経験の持ち主であった。早くから初代社長根津嘉一郎にその俊秀ぶりを見出され、
根津門下の逸材の一人に数えられていた。
 社長就任を機に体制の建直しが行われ、取締役内山仁、森武臣が常務取締役に選任され、
同年6月財界に隠然たる勢力を持つ伊藤忠兵衛(伊藤忠商事社長)、浅尾新甫(日本郵船社長)が
取締役に就任し、経営陣は強化された。
 佐竹社長の持論は「会社の発展はよき人材の育成にあり」であり、常に堅実経営を旨とし、
最大たらんよりは最優たれ」を経営方針とし、契約者奉仕を優先して正しい保険思想の復旧、
外野体質の改善、資質の向上に力を尽すこととなった。


結婚式にて




大東亜戦争、周囲の反対を押し切り最激戦地ニューギニアへ主計大尉として出征
前夜、家族と記念写真空襲で焼失した青山の自宅応接間にて

養父・養母


特に銀座教会には敗戦により打ちひしがれた国民に希望を与えたいと鐘楼を寄付。
現在でも「銀座の鐘」として鳴らされている。
また中目黒教会の土地取得に主導的役割を果たした。

昭和30.11.8 廣田工場視察



靖国神社にて昭和電工戦没者慰霊

故佐竹会長の社葬は10月26日午後1時より青山斉場において、各界名士その他多数列席のもとキリスト教式
により執り行われた。
式檀は白菊、白百合、白カーネーションで美しく飾られ、中央に故佐竹会長のご遺骨と御写真が安置され、
その後部上方にはカトレアの花で型どられた十字架がかかげられていた。
水をうったように静かな式場にオルガンの奏楽が流れ、厳粛の中にも故佐竹会長をしのぶ哀しみの気が
みなぎっていた。
葬儀は銀座教会及び中目黒教会の牧師の司式により、聖書朗読、祈禱、故人履歴、頌栄及び讃美歌。
安西社長、岸総理、石坂経団連会長、土井硫安協会々長、根津東武鉄道社長の弔詞、安西社長、岸総理
ほか業界、友人、労組代表者10名、並びに遺族16名による献花が行われ、小林葬儀委員長の挨拶により
葬儀を閉じ、続いて2時50分より告別式が行われた。
この時すでに斉場広場及び斉場前道路は告別式にのぞむ人々があふれ、5千数百名の人々による告別も
午後4時終わりをつげ、哀悼の誠をささげた社葬は、とどこおりなくその幕を閉じた。


浅尾新甫日本郵船社長(浅尾慶一郎参議院議員の祖父君)

お別れの会で弔辞を述べられる浅尾社長

目黒区駒場の私邸より出発した葬列

昭和電工本社前を通る葬列

葬列を見送る昭和電工社員


葬儀に参列された岸信介総理ら政財界首脳

青山葬儀所で執り行われた葬儀に参集された葬列





昭和電工社内報より



昭和アルミニウム社長 山本敏郎 「高い山」 (昭和五十七年十月)より抜粋

大分旧聞に属することになってしまったが、昭電事件なるものがあったことを記憶して居られる方は多いことと思う。
そのため社会的信頼を失った当時の昭和電工再建に、当時富国生命社長をしておられた佐竹次郎氏が、財界の衆望を担って社長に就任されたのは昭和二十八年九月のことであった。
佐竹氏はその後約五年半社長として陣頭指揮をされ、世間の信用も回復したのを機に昭和三十四年一月社長の地位を故安西正夫氏に譲って会長になられ、その後一年もたたぬ十月二十一日忽然としていこの世を去られたのである。
 当時私は昭和電工にあって、初めは人事の一担当者であり、昭和三十年からはアルミニウム地金販売の一課長に過ぎなかったのであるが、たまたま野球部の監督などをしていたので、直接佐竹社長に接する機会を得たことは、私の生涯にとっての大きな宝になった。
 佐竹次郎氏は敬虔なクリスチャンであり、公私の別には峻烈であり、自己には極めてきびしい方であった。自己に厳しすぎた故に自らの生命までも縮められたのではなかろうか。通夜の時の昭和電工副社長(現会長)鈴木治雄氏の次の追憶談は、よく佐竹氏の人格を語って余すところがない。即ち「会社運営の妙諦はチームワークにありとのお考えで、いつも社内の融和、団結を図られたのであります。思うに会社の最高の経営者の資格は手腕でもなく、パーソナリティとキャラクター、つまり徳性の高さだと考えます。残された私たちは今後努力を積み重ね、経験を積み重ね、佐竹さんの手腕力量にあるいは近づくことはできたとしても、あの愛情の深さ、徳性の高さを思う時、何か高い山を打仰ぐような感じで到底及び難い思いにうたれます。」(昭和電工五〇年史一九六頁)
 私自身佐竹さんにはいろいろな想い出もあるのだが、前述したように私は一人事担当者だったころ、いろいろなコネを通じて持ち込まれる入社希望者の処理に思い悩んでいた時、当時の佐竹社長から伺った話で今も脳裏に深く残っている次のような話を時々思い出す。「山本君、私は自分の息子を自分の息のかかった会社に就職させようとはおもわないね。もし仮によくできて昇進が早くても、彼は社長の息子だからと云われたのでは本人が可哀想だし、反対にできが悪けりゃ私が恥ずかしいからね。」
 さりげない一つの寓話かも知れぬが、その言葉の中に佐竹さんの人柄の真面目さがにじみ出ているような気がするとともに、ほんとうに高い山のような人だったと今更のように偲ばれる。

弔辞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   昭和電工社長   安西正夫

 本日は故佐竹会長が亡くなられましてちょうど一ヶ月になりますので、会長の御生前にごじつこんに願った方々並びに御葬儀に際しまして、いろいろとお骨折りを頂きました各位をお招き申し上げまして、故人の冥福をお祈りいたしますとともに、故人の徳をおしのびいたしたいと考えましたところ、お忙しいところを皆様にはお繰り合わせ御光来を頂きまして、主催者側と致しまして感激にたえないところでごさいます。

厚く御礼を申し上げます。

 御承知の通り佐竹会長がお亡くなりになりました時に、私は社務でアメリカに旅行中でございました。

そのため葬儀その他手配万端に参画することもできなかったのでございます。このことは故会長の晩年において公私ともに最も親しくご指導を受けて参りました私の気持ちといたしまして、まことに相済まぬことで、本当に心残りに存じておるところであります。今日も悔やまれてなりません。けれども、故佐竹会長との御交わりにおいて、私どもよりもずっと古い、そして深い恩関係にあられる小林相談役がおいでになって、葬儀委員長として一切の采配を振って頂きまして、万全の措置を講じて頂きましたことは、本当にありがたいことでありました。そうしてこのことは故人のお心にもかなった結果になったのではないかと存じておるのであります。そうしたことを含めまして、この度の小林委員長の御苦労に対し、心から御礼を申し上げたいと存じます。又委員長の皆様におかれましても、公私御多端のところをいろいろと御高配を頂きましたことを厚く御礼を申し上げる次第でございます。

 実はもう一つ私の心残りにすることがございます。それは私が今度の旅に出ます時に、故会長がつかつかと私の机の前においでになって、「一つ土産を買ってきてくれないか」と言われたのであります。

何かむずかしいものではあるまいかと、正直なところ私はちょっとひやりとしたのでありますが、佐竹さんは、「どうも万年筆がみんな悪くなってしまったんだ、自分が使うのだが特別に上等なものを一本買ってきてもらいたい」こういうご注文でございました。私はそれは御安い御用ですとお約束をしたのであります。それが旅の枕で寝耳に水のような悲報に接しまして、取るものも取りあえず空港にかけつけたようなことでありまして、真っ黒な夜の太平洋を飛びながら、眠れぬままにいろいろと故会長の思いでにふけっておりますうちに、ふと、あゝしまったとひざをうったのであります。万年筆をもってこなかったのに気がついたのであります。もうおなくなりになりましたので、万年筆は要らないという考えもあるかもしれませんが、私と致しましては、どうも佐竹会長のいわば最後の御依頼を果さなかったということに、何とも言えない寂しさを禁ずることができない気持ちであります。今日も故会長のお写真を拝見いたしますと、温情あふれるような口元から、「あなたはあまりに忙しくてよく用事を忘れていたが、最後の約束を忘れましたね」と、皮肉を言われるような気がしてなりません。そのうちにひとつ今度外国へ参りましたら、飛び切り上等の万年筆を一本、私が選んで私が買って御霊前に供えたいと考えております。

 それから、佐竹会長からかねがね私にお話のありましたことを、もう一つこの機会に申し上げさせて頂きたいと思います。それは昭和電工に功労のあった社長またはそれにしても準ずべき人々の、一年に一度の御命日には、必ず現社長が感謝と追憶の情を表すために、霊前にはなを捧げるしきたりを作りたいと思うが、あなたの意見はどうであるかということでありました。もとより異論のあり得ようはずがありませんとお答えしましたのでありますが、佐竹会長は、社長時代どんなに忙しくともそれを実行して参りました。私はこのことを御遺志を継いで実行致しますが、佐竹会長の御霊前にぬかずくことがこんなに早くくるとは夢にも考えませんでした。悲しいことでありますが、御命日には必ず御意思通りこれを実行いたしますことを、この機会に皆様の前でお誓いいたしたいと思います。

 それで私のごあいさつを終わりたいのでありますが、重ねて皆様のご来会に対しまして、厚く御礼申し上げる次第でございます。この会場が都心よりも多少はずれておりまして、お忙しい皆様に非常に恐縮に存じましたが、実はこの精養軒は佐竹会長とは少なからぬ因縁がございまして、重役か相談役をしていらっしゃいまして、会長と私が旅行をするような場合には、必ずこの精養軒の経営についていろいろお話が出たものでございます。本日はここに皆様のにお集まり願いましたことについては、故会長も非常に喜んでくださっておるだろうと思いますので、平素のごじつこんに甘えまして非常に恐縮でございました。

 ありがとうございました。

    追悼の辞

                  東京電力社長  青木均一氏

 私,青木であります。実は佐竹君の追憶の話をすると言ってここに立ちましたが、私にはどうしてもまだ佐竹君が亡くなったということが、自分の気持ちとして信じられないような、まだ生きておられる、その辺から、ようと言ってどうも出てくるような気がいたしまして、実感が伴わないのです。はなはだ恐縮ですが、いろいろ私の追憶の話は、少しまだ生きておられるような話がおおいと思いますが、ご容赦願いたいと思います。

 私は佐竹君とはだいぶ前から付き合ってはおりますが、特に親しくいろいろ話合いをし出したのは、約二十数年前、今ここにおられる諸井貫一君や矢野一郎君、あるいは渋沢敬三君やなんかと、みんなで火曜会というのを作りまして、当時は言論が自由でない、いろいろの内輪話をなかなか聞けないから、政界の人たち、あるいは新聞報道半の人、あるいは軍人等を招きまして、毎週火曜会に昼飯を食べまして、そしていろいろ話を聞き、また時事問題でお互いに意見をたたかわしたことがあります。現在もまだ続いておりますが、その火曜会で親しく佐竹君を知ったのですが、しかしそのときよりも私が一番印象深く、しかも佐竹君をよく認識したといいますか、よくわかったというような気がいたしましたのは、その後、終戦直後火曜会をやはり開きまして、佐竹君がニュウギニアから帰ってきたという話を聞きまして、それじゃきょうはひとつみんなで佐竹君をお迎えしようじゃないかというので、卓を囲んで待っておりましたところに、佐竹君が入ってきました。その時は確かに疲れ切りまして、かなり弱っておられた。やせておるし、顔色も悪かった、しかし入ってきてわれわれの顔を見るなとどう言ったかというと、いきなり「ひでえじゃないか、君たちは」

こう言ったのです。僕はその言葉を聞きまして一時ちょっとびっくりしたのです。しかしながらこの「ひでえじゃないか、君たちは」というのは実感です。

確かに佐竹君がその通り思われたに違いない。

 ニュウギニアで九死に一生を得られて、自分は苦しんで帰ってきた、友達はみんなのんびりして、火曜会でけっこうビールなんか前においてうまいものを食ってるじゃないか、ひでえやつらだなというのは、そのまま実感を出したので、私はこれは佐竹君は非常に正直な方だ。私は以来好きになりまして、非常に佐竹君とは親しくしておりました。ことにスポーツに関係して非常に話が合うものですから、当時私と本州製紙の今会長をしておられる田辺さん、たぶんここにいらっしゃると思いますが、三人で年寄りの野球だとか、あるいは少年野球ですとかあるいは中くらいの年寄りの、今オーバー・フォーティといっていますが、そういう比較的普通の、選手でない階層の野球の世話をいたしまして、しかもこれなかなか工合育いってまいりました。外部の人からは、大体私と田辺さんと佐竹君の三人でやっているもんだと、皆から思われておるわけであります。この野球についてはほとんど私と佐竹君が意見が衝突するなんてことは、過去にありませんでした。今でも思い出があるのは、五百歳野球というのを、五十歳以上の人でチームを作りまして、女子軍やなんかと盛んに試合をしました時、浜町の公園で芸能人とやろうじゃないかというので、当時の芸能人、最初は島田省吾君がピッチャーになって出ましたが、芸能人のほとんど全部を網羅したチームとやりまして、大接戦をやったことがあります。そのとき明治座の下に食堂がありますから、入りまして、芸能人の人たちとビールを飲みながら、さて僕も汗かいたからもうこれで失敬しようと言ったら、ちょっと待てよ、これから芝居見ようじゃないかというのです。どうもこれは汗かいちゃって、芝居を見るのは勘弁してくれ、これぐらいが、おそらく佐竹君から誘われて私がお断りしたものです。そくらいに実に愉快な思い出がたくさんあるのであります。しかし、なかなか皮肉なところがありまして、今安西社長からお話がありましたが、君は万年筆をわすれたねと言われるようなことも、私はしばしば経験があります。今あすこに浅尾新甫君がおりますが、いつでしたか、経団連の常務長の席上、私がちょっと遅れて参りますと、浅尾君と佐竹君と二人で並んで、僕の入ってくる顔を見てにやにや笑っているのです。これは何かたくらんでいるなと思って隣りへすわりますと、案の定、青木君、君書画骨董はどうだねと、いきなり僕に質問するのです。

 僕は面食らって閉口したのですが、この男書画骨董に知識ないと見て、私に難題を吹っかけたのです。

おそらくあすこにおる浅尾君と一緒に共謀してやったことだと思っておりますが、そういうなかなか辛辣なところがあるので、ちょいちょいやられておりました。これは私が直接聞いているよりも、御披露していいと思うのは、ともかく私に青木君に賞品授与する役をやらして、自分が賞を受け取ってみたい、これをみんなに言っておったそうですから、多分これは希望しておったことだと思います。その商品授与をするというのは、野球のオーバー・フォーティで、最下位になったチームの社長、いわゆるビリの会社の社長が商品を授与する責任を負いまして、授与しなければならぬというおきてが、これは佐竹君が発案して決めたものがあるのです。その名誉のというか、その役を僕にやらせる、そのかわり優勝した方のチームとして自分が商品をもらうのだ、これが非常に熱望であるということを,まわりの人にみな言っているのだそうで、この間もちょっと若い連中の集まったところへ行きましたら、佐竹社長があれ言っていましたけど今度優勝したけれども、青木社長が渡す役にまだならないので、これは残念でしたねとひやかされました。今年の秋には昭和電工が優勝しまして、佐竹くんが生きておればもちろん商品を受け取る方になる。私は幸か不幸か最下位の次でどうやら切り抜けまして、授与する名誉は負わなくて済んだわけであります。

 私は取りとめもないことをもうしあげますが、どうしてもまだ佐竹君が我々と同じようにここにいるような気がして、どうもその感じが不思議な現象ですがぬぐい切れない。おそらくこれから野球の会合なんかで、田辺さんたちと、またその他の今までの顔ぶれと会う機会がちょいちょいありますと思います。

 その時はじめて佐竹君が見えないことによって、おそらく寂しみを加えて、ほんとうに佐竹君がいなくなったんだなあということを、感ずるのではないかというような気がいたしております。はなはだ取りとめもない話ですが、どうも。

祖母と使用人 僅かな期間であったが豪壮な邸宅で多数の使用人に囲まれ幼少期を過ごした


佐竹次郎山梨名家録

佐竹次郎の墓

基督教団文書









 

 

 

街頭演説 -三室事務所前にて-

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