ご挨拶
はじめまして、佐竹彰信と申します。
私が通学していた東京都杉並区立高井戸第2小学校は折からのベビーブーム期を反映して
クラスの生徒数は50名近く、全校生徒に至っては1400名を数えるマンモス校でした。
小学校2年の時に両親の離婚が成立、苗字が「伊藤」から「佐竹」に変わり忽ち好奇心の
対象となりました。
何しろ全校生徒の中で離婚、姓名変更したのは私だけでしたので無理からぬことだった
のかもしれません。
私は父が三井物産のケニアの事業所から送ってきた絵葉書を思い出し「父がアフリカで
ライオンに食べられちゃった」とごまかし努めて明るく振舞いました。
生活も一変し、母は離婚を機に実家に頼らず女手ひとつで私を育てることを決意、私が
通学していた小学校など近隣の小・中学生を対象として英語塾を開講しました。
首から合鍵を下げて登校するようになりました。
冒頭に触れましたように学校で特異な存在になりつつあった私に対し母は人生修行を
させようと、小学校3年時には外交交渉の裏側で根回し役をされていた日米協会会長
元衆議院議員の笠井重治先生に書生見習いとして預けられました。
笠井先生は若くして渡米、シカゴ大学に学ばれ弁論大会で「太平洋の優越」と題して
講演、雄弁最優秀弁論賞を授与された程の語学が秀一な方でありました。
また福田赳夫首相を始め、歴代総理や米国大統領、駐日大使の他、多数の政財界人と
交流がありました。
東松原にあった広大な笠井邸には応接間が3部屋あり、連日来客でごったがえし、
お手伝いさんが茶菓をお盆に乗せて行き来され、邸内は高貴な紅茶の香りに包まれて
おりました。
私は門から玄関までの敷石に水を撒いたり、庭園の草刈りなどに従事させて頂きました。
夜、お客様がお帰りになり、静寂さを取り戻した邸内の北側に位置する厨房の片隅で
粗末な丸椅子に座って、先生の横でささやかな夜ごはんを頂きました。
外面上の華やかさとは裏腹に、つつましい生活を目の当たりに致しました。
その後、全寮制高校に学び卒業と同時に和田耕作先生に師事、政治だけでなく人と
しての生き方につき学ばせて頂きました。
和田先生は代議士会長の要職にあられ時の総理と渡り合うなど外面的には華やかな
活動をされておられましたが、私生活では他事を優先、「公僕」としての政治家の
在り様につき薫陶を授かりました。
やがて師と敬い父親のようにお慕いしていた先生が他界され、流浪していた時、
学生時代の先輩に声をかけられ、連敗中だった現県議の選対本部長に就任、当選に向け
尽力致しました。
しかし当選を機に策定した公約を何ひとつ実行されない姿勢に悲憤を覚え県政に挑戦
するも惜敗、暫く政治の道から遠ざかりました。
その後も空前の物価高に庶民が苦悩するのをよそに「私設美術館」を創設されるなど
県議の地域の方々に寄り添うことなく事業・家族の繁栄を謳歌する姿に憤慨、
「私業、家族の繁栄か市民の声を反映か」
を掲げ県政を市民の手に取り戻すべく再び県議選に出馬、前回から3倍強の得票を頂き
ながら惜敗いたしました。
これからもめぐまれた住環境と人情味溢れる人々の生活を守るべく
微力を尽してまいります。
経歴
昭和36年2月 | 東京・板橋区で出生 |
---|---|
昭和54年3月 | 学校法人広島三育学院卒業 |
昭和54年4月 | 衆議院議員 和田耕作秘書 |
平成6年8月 | 学校法人広島三育学院同窓会会長 |
平成18年7月4日 | 和田耕作先生逝去 |
平成19年1月 | 高橋まさお選挙対策本部長 |
平成19年4月 | 県議会議員高橋まさお秘書役 |
平成26年 | 学校法人広島三育学院同窓会副会長 |
平成28年 | 一般社団法人三育育英会事業本部長 |
平成29年 | 株式会社躍動代表取締役 |